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おはろーございます、あなたは 404 Not Found 人目のお客様ですよ。

  

当記録には個人的な表現を含む、アレな場面が存在しちゃいますったらしちゃいます。

よって、18歳以下は推奨できまっせーぬ。

またー、当記録を閲覧したことによりあなたが砂糖菓子のような素敵で甘いリラダン的(?)

な損害を負ったとしても、当方は一切関知いたしませーぬ。

閲覧を希望される方は、自己責任でお進みください。

  

  

  

001 エスノグラフィーとエスノメソドロジー



 エスノグラフィーとエスノメソドロジーについて。

 どちらも社会学用語である。
 現在、社会学の地図は《伝統的な社会学》と《新しい社会学》に大きく二分することができるが、このふたつは《新しい社会学》に分類される。

 古くはポリネシアやアラスカの社会を研究したもの、マルコ・ポーロ「東方見聞録」などがあげられる。
 近い時代のものでは佐藤郁哉「暴走族のエスノグラフィー」、「世界ウルルン滞在記」「世界ふしぎ発見」などがある。



 最初にまとめてしまうと
〈エスノグラフィーとは、調査者が、ある社会的活動を営む人々のもとへ行き、彼らの生活を記述することを目的としたもの〉
 である。

 これらをもうちょっとマシに記述するために、以下3つの項目について補足しておく。
 すなわち〈調査者〉の存在、〈社会的活動〉の範囲、そして《記述》についてである。



 

 1、〈調査者〉について。



 存在していなければならない。

 会社、学校に所属している人物が、そこで起こる出来事を記すだけではエスノグラフィーたりえない。
 日記、随筆とエスノグラフィーは違うものである。
 裏を返せば、ある人が会社、学校に所属しており、そこの社会的活動を解明するなどの目的をもって調査、《記述》した場合、それはエスノグラフィーとして扱うこともできる。



 2、〈社会的活動〉の範囲

 ポリネシアやアラスカ、「東方見聞録」、「世界ウルルン滞在記」の例によると、エスノグラフィーの 対象はおおむね〈海外〉に向けられている。
 古い時代のものについては理由がある。
 かつてのエスノグラフィーの背景には植民地支配の思想があった。
 植民地として支配するにあたり、その地域の良し悪しはどうかのか。
 どのような社会的活動が行われているのか。
 それを知るために行われた調査・報告がエスノグラフィーである。

 エスノグラフィーはEthnographyである。
 〈民族の記述〉という意味であり、日本では《民族誌》という訳語があてられている。

 これの応用例に佐藤郁哉「暴走族のエスノグラフィー」がある。
 暴走族はいわゆる《民族》ではない。
 だが一般人とはまるで違う文化や価値観をもっており、《民族》 として調査したほうが適切であると筆者に判断されたのかもしれない。

 

 闘病記のいくつかが〈病院・入院のエスノグラフィー〉としての性質を持っていたり、映画「ラストサムライ」が〈武士のエスノグラフィー〉として使えたりするのだろうか。



 他人のひとりひとりが、背景に〈社会的活動〉を背負っている時代である。
 日本文学で言うと安部公房あたりの時代にはすでに指摘されていたことだが、すべての人がこのことを気にかけねばならないという事態になったとき、どのような問題を発生させるのだろうか。
 発達障害のパンフレットなどを覗くと、相互理解の重要性が強調されている項目がある。相手を知り、便宜を図るという偏った意味ではない。自分にとって相手にとって、全員にとって負担にならない関係を築きあげることが理想なのだという。

 

 相互理解のための技術は、どうやって身につければ良いのだろうか。

 

 

 

 3、《記述》について。

 

 広い意味では、〈ものを書くこと〉はだいたい記述である。

 日記、ツイッター、小説、俳句短歌、プリント、レジュメ、同人……すべて記述の要素を持っている。

 

 社会学的にはもう少し意味が限定される。

 

 《フィールドワーク》で得た資料を《フィールドノーツ》と総称する。
 これらを《報告書》として提出 できる状態にもっていく作業が《記述》である。

 

 つまり、調査や研究によって得た資料をまとめ、提出できるかたちに整えることを《記述》と呼ぶ。
 一般的、日常的な場面では〈清書する〉〈推敲する〉などの言葉が近い意味を持っていると思われる。

 

 フィールドワーク中に思いついたことをメモ帳に記述した――という使い方は、社会学的には不適切にあたるのだろう。

 

 〈書かれている〉〈記してある〉〈記述してある〉などは論文引用をする際にこまめに使う語彙であった。

 社会学の論文を書く場合、〈記述してある〉という言葉が安易に使えなくなってしまうのかと考えるとアンニュイである。

 

 

 

――――――

 以上のことをふまえ再掲すると
〈エスノグラフィーとは、調査者が、ある社会的活動を営む人々のもとへ行き、彼らの生活を記述することを目的としたもの〉
 である。

 

 それらは書籍、論文、冊子、テキストデータといった形態をとりがちになるのだろう。
 見聞きしたことがある学問の場合、「論文が受理されれば暇になる」といった言い方がされているが、エスノグラフィーにおいては「論文が《報告書》として受理された」という言い方をするらしい。
 先述した、背景に政府との関係を背負っていることが理由であるようだ。
 エスノグラフィーは、おおもとは植民地支配などを目的とした調査であり、政府に提出される《報告書》をもって結果とする。政府が欲しがっているのは論文や評論ではない。
 この《報告書》という言葉の使い方が、エスノグラフィー周辺に限定されているのか、社会学全体で使われているのかはわからない。

 

 

 

 ところで《エスノメソドロジー》であるが、エスノメソドロジーはエスノグラフィーのように〈報告書をつくる方法論のひとつ〉ではない。

 

 エスノメソドロジーは分析の手法である。

 

 従来の《伝統的な社会学》では、コミュニティというものは場が性質を決めるもので、人々は場に従っているとされていた。
 会社や学校や軍隊、人を肩書で呼称するようなコミュニティがわかりやすいだろう。
 そして学校では〈先生とは○○である〉〈生徒たちは△△のような性質をもっている〉ということが指摘できるのだが、これは良くも悪くも《平均値》のことしか扱えなくなる。
 〈やさしい先生〉〈あかるい生徒〉〈あたたかい家庭〉〈つよい武将〉〈どっしりと構える大将〉〈かわいいペット〉〈静かな物腰の名人〉〈新進気鋭の挑戦者〉


 エスノメソドロジーの成果のひとつとして《IRE》があげられる。

 学校では先生が教え、生徒学生が学ぶものであるという価値観がある。
 なぜか?
 授業とはいかにしてその関係を構築しているのか?
 研究者が《会話分析》を行ったところ、学校では日常的な会話では行われていない手順が用いられてい ることが判明した。

 すなわちIRE ――Initiation Reply Evaluation――である


 「いま何時?」質問に対し、通常の会話を想定すると「午前3時」と時刻を返せば終了となる。
 学校教育の場では、

 

 教師「いま何時?」 Initiation(開始)
 生徒「午前3時」 Reply(返答)
 教師「正解」 Evaluation(評価)

 

 という手順が用いられている。
 学校特有の方法というわけではなく、家庭など教育に携わる場所ではよく見られる方法である。

 

 エスノメソドロジー自体はかなり禁欲的である。
 〈教育現場においてはIREが行われる〉ということが分析できたら、それ以上のことを目指すということ はしない。
 本来、分析とはそういうものなのだろう。

 

 《伝統的な社会学》で平均値が扱われているということは、扱われていないのは《はずれ値》である。
 ゆえにエスノメソドロジーは《はずれ値》や《ノイズ》を相手にしがちであるそうだ。

 

 

――――――
 まとめながら思うところがいくつかあった。

 

 エスノメソドロジーがはずれ値を相手にしているということは、精神疾患発達障害に対して有効であ るということなのではないか。
 すると、《伝統的な社会学》はそれらに有効なアプローチをすることができない、ということになるのだろうか?

 

 場や性質、ジャンルに《名付け》をして、その名前に対応していくというやり方が《従来の社会学》であるとする。

 これは大多数を相手にする際には有効であるが、それこそ精神疾患発達障害など〈同じ《名前》であったとしてもケースによって状況や対処が異なる場合〉には向いていない。

 

 周囲で〈うつ病〉に関わる人々を見ていると、どうも「うつ病に頑張れは禁句」「うつ病は外出させる と良い」「うつ病には不眠がともなう」など《名前》に関連した考え方をしているように思われる。

 もちろん、こうした人々を《伝統的な社会学》的であると判断するのは早計である。
 仮にすべての仮定が成立していたとしても(万が一である)、
「《伝統的な社会学》は○○には対応できない」
 という批判の仕方は、《名付け》を用いた《伝統的な社会学》的なやり方である、という矛盾を抱いている。

 

 ヤン・ウェンリーあたりが言っていたが、ハードや体制はそれそのものがどういう性質かというよりかは、使う人の心構えひとつで良くも悪くもなる。
 知識も、そういうものなのかもしれない。

 

 

 

 エスノメソドロジー、そもそも分析ということは禁欲的なのだということを今回思い知らされた。
〈学問とは研究とは分析である〉という価値観を持っていたので、これは衝撃であった。

 同時に、ある教授に叩きこまれた〈全ての関連資料を検索する。全て調達して読む。その上で考察する 〉という方法論の成立するケースがかなり限られているという認識もした。

 若い(同世代の)人たちや他学問の方はあまり分析的ではないなという所感を抱いたこともあったが、言われてみれば社会、経済、工業、環境、物理、情報――といったものが、全て源氏物語研究と同じ方法で学問されていたとしら、なにやらおもしろすぎるようである。

 

 学問とは分析であるという心構えは一種の信仰として頭のなかに存在しており、日常のなかでも採用していた節がある。
 ということは、自分は周囲からひどく禁欲的な存在であると認識されていたのではないか。
 いち個人としてはとても禁欲的とは言えないような生活をおくっているので、この態度は何人かを戸惑わせてきたのだろう。
 そのあたりのことを考慮すると、いささか心苦しいというか、申し訳ない気持ちにもなる。


 ここに書いてあることが、彼らや彼ら周辺の知的な時間つぶしにでもなって、結果としてなんか幸福的なものが発生すればいいなと思う。
 これからも続けられれば良いのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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